法圓寺

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第362回

令和7年9月26日

お前も死ぬぞ

掲示板の言葉

 先日ネットで、あるお寺の掲示板に「お前も死ぬぞ 釈尊」と書かれたものを見つけました。かなり過激な言葉が書いてあるなあと驚きました。それとこの言葉を本当に釈尊がおっしゃったのかという疑問も湧き上がってきました。少し調べましたら、この言葉は釈尊の教えを伝えているとされる原始仏典『サンユッタニカーヤ』の中で、「生まれたものが死なないということはあり得ない」(中村元訳『ブッダ悪魔との対話』より)と記された言葉を、よりはっきりと私たちに届くようにアレンジした言葉のようです。

四門出遊

 釈尊が出家を決意するきっかけとなったのは、四門出遊(しもんしゅつゆう)という出来事です。その出来事の中で、釈尊はお城の西門から出られた時に葬列に出遇ったと伝えられています。その事によって釈尊が突きつけられたのは、まさに「お前も死ぬぞ」という逃れられない事実ではなかったでしょうか?
 その四門出遊という出来事の中で、釈尊は老病死の苦しみを克服できなければ、人間は幸せになれないと感じました。そして最後にお城の北門から出た時に出遇った出家者の姿に心を動かされ出家されたのです。ですから老病死の事実が仏教を開くご縁になったといえるのです。
 

死は当然の事実

 
 確かに健康な時に私たちは「自分が死ぬ」とは考えていないように思います。知っている方のお通夜や葬儀に参列しても、自分は死なないと思っているのではないでしょうか?その意味で死を忘れて生きているのが私たちです。
 現代の日本では、多くの方が病院か施設でお亡くなりになられ、自宅でご家族や親戚に看取られる方はほとんどいなくなりました。その意味では現代は、家庭から死が見えなくなった時代であるといえます。しかし死が見えなくなるということは生が見えなくなることです。そうなると、生きていることが当たり前になり、生きていることに感動や感謝がなくなり、その人生は不平不満、愚痴に汚染されたものとなってしまいます。

後生の一大事

 
 仏教では、死は当然の事実です。生まれたものは必ず死ぬのです。それは釈尊も例外ではありませんでした。しかし、その厳しい現実に頭が下げれば、逆に生かされている有り難さに目覚めるのです。いつ死んでも不思議ではない私が今生かされている。これ以上の感動があるでしょうか?その感動に目覚めると、不平不満、愚痴の人生が感謝と感動の人生に変わるのです。そのことを古来から「後生の一大事」と伝えてきたのです。

覚悟はできているのか?

 葬儀の時に、帰敬式を行うことがあります。これは生前中に帰敬式を受けておられなかった方の頭髪に住職がかみそりをあてて、仏弟子とならしめる儀式です。その時に私は亡くなった方の「お前も死ぬぞ」という声が聞こえることがあります。「偉そうにしているが、お前も自分と同じように必ず死ぬぞ。それは今日かもしれないし、明日かもしれないぞ。その時の覚悟はできているのか?」と。その声に導かれて私の聞法は続くのです。死を問いとして、それに応えうる生を明らかにしたいものです。

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