法圓寺

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第255回

平成28年11月1日

近道すれば 南無の一声

お浄土までの距離

 「お浄土なんて、本当にあるんですか?」と訊かれることがあります。私はそれに対して、「お浄土はどこかに実体的に存在するわけではありません。あくまで信心において見い出す世界が、お浄土なんですよ」と答えます。信心を抜きにして、お浄土があるとか、ないとか言っても、結局それは観念論になってしまいます。
 『阿弥陀経』というお経の中に、「これより西方に、十万億の世界を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と日う」と、述べられています。それはどれくらいの距離があるのか、計算した方がいらっしゃいました。近畿数学史学会・会長の山内俊平という先生です。先生の計算では、私たちの住んでいる世界からお浄土までの距離は、約10京光年で、光の速さの乗り物でも一億年の十億倍かかるそうです。ほぼ無限といっていい距離です。これでは人間の力では、とても行けそうにありません。
 それである方がこんな歌を作りました。「極楽は 十万億土と 言うからにゃ 足腰たたぬ ババには往けぬ」。お浄土がそんなに遠い所にあるのなら、足腰の弱ったおばあちゃんには行けないというのです。確かに自分の力で行こうとする限り、お浄土は、はるか遠くにあるのでしょう。しかし、念仏詩人・榎本榮一さんは「しぶといこの頭が下がったら、浄土の光は、こんなところに」と詠んでいます。

あるご住職の述懐

 ある年配のご住職から、次のような話を聞いたことがあります。この方は胃がんの手術のために入院することになりました。それでその日の朝、自分が生まれ育ったお寺の境内をぐるっと一回りしたのだそうです。その時に、自分が村で一番嫌っていたおじいさんの顔が浮かんできました。このおじいさんは、ご住職が右と言えば左と言う、黒いと言えば白いと言う方で、ご住職はいつも「このじいさんさえいなければ、自分はもう少し幸せな人生を送れたのに…」と思っていたそうです。ところが、その日はなぜかそのおじいさんがニコニコした顔で、自分の頭の中に浮かんできました。その時にふと気づいたことがあるというのです。自分は「このじいさんに負けてなるか」という気持ちで、この年まで頑張ってきた。ということは、結局、大嫌いだったこのじいさんのお陰でこの年まで頑張ってこれたのでないか、このじいさんにも支えられていた、と気づいたのです。先ほどの榎本榮一さんの詩はそのようなことを表現しているのではないでしょうか。自分の力で行こうとすれば遠いですが、この傲慢な頭が下がれば、向こうから来てくださる世界、それがお浄土なのです。

お浄土とは?

 ある方は、先ほどの歌の返歌として、次のようなものを作っています。「極楽は 十万億土と 言うけれど 近道すれば 南無の一声」。自分の傲慢な姿を知らされて、「南無」と頭が下がった時に、お浄土は向こうから来てくださるのです。ですから、お浄土とは、どこかに実体的に存在する世界ではありません。浄土の教えを通して、仏様が照らし出す姿を見せていただくと、自分の傲慢な頭が下がり、物事を見る目が変わるのです。そこに開かれてくる新しい世界がお浄土なのです。ですから、お浄土とは信心において見い出す世界なのです。

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