第339回
目連尊者の懺悔
今年も8月に法圓寺では盆参会をお勤めいたしました。お盆のことを盂蘭盆とも言いますが、この言い方はサンスクリット語の「ウランバナ」に由来します。ウランバナとは「倒懸」と訳され、「逆さ吊り」を意味します。ではどうしてお盆が逆さ吊りからきているのでしょうか。
それを知るにはお釈迦様の時代に遡らなければなりません。お釈迦様の優れたお弟子さんの中に、目連尊者という方がおられました。その目連が神通力を成就して、亡くなられた自分のお母様の様子を観察してみると、何と餓鬼道に落ちて逆さ吊りになっていることに気づきました。目連は驚いて餓鬼道に降りて行って、食べ物を与えようとしますが、どういうわけかお母様がそれを食べようとすると、食べ物に火がついて食べられなくなってしまいます。困った目連はお釈迦様に相談します。するとお釈迦様は
あなた一人の力ではどうしようもありません。安居(あんご)の自恣(じし)の日に三世の多くの僧に百味の飲食(おんじき)を供養しなさい。
と言われました。それで目連がそのように供養すると、お母様は餓鬼道から救われたというのです。この説話は『仏説盂蘭盆経』というお経に出てきます。
私たちはこの説話をどのように受け取ったらいいのでしょうか?池田勇諦先生は、安居の自恣の日に供養を実行したところにポイントがあるとおっしゃいます。インドでは修行者は雨期には托鉢に出ず、道場に籠もって修行します。これを雨安居(うあんご)と言います。そして自恣の日とは安居の最終日のことで、安居の期間中の修行を自らが反省し、その反省内容を大衆に懺悔告白する日だそうです。つまり目連が自恣の日に自分のあり方に目覚め、懺悔したことがお母様の救出につながったというのです。
餓鬼の生き方
そもそも目連のお母様はどうして餓鬼道に落ちてしまったのでしょうか?目連が出家されたことは、家族にとっては大事な稼ぎ手がいなくなったことを意味します。そのため目連のお母様は、自分たち家族が生きてゆくために何らかの罪を犯し、そのために餓鬼道に落ちたと言われています。目連は自分の修行の成就に全精力を傾けていたために、そのことにまで目が向かなかったのではないでしょうか?お母様の苦労に気づかず、自分だけ自らの修行に明け暮れていた。そんな自分の傲慢な姿に目連は初めて目覚めた。お母様が餓鬼としか見えなかったけれど、実は自分が餓鬼の生き方をしていた。目連は自恣の日に自分の姿を内省して、そのことが見えてきたのです。そして、そのことを大衆に懺悔告白をされたのです。その目連の懺悔によって、お母様は餓鬼道から救われたのだと思います。
私たちは、この説話を自分とは関係のない目連のお母様が餓鬼道で逆さ吊りになっているとしか受け取っていないのではないでしょうか?ですから、何度この話を聞いても他人(ひと)事であり、さっぱり響いてこないのです。逆さ吊りとは、先ほどの目連の懺悔の内容であり、また私たち一人ひとりの常のあり方を教えてくれるものなのです。そのようにあらゆるご縁から自分の本当の姿を知らされ、本願を聞き直してゆくことが念仏者の生活なのだと感じさせていただきました。