第281回
キサー・ゴータミーの説話
これは今から二千四、五百年前にあった古代インドの町・舎衛国でのお話です。キサー・ゴータミーという一人の母親がいました。ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれていました。
彼女は、息子を生き返らせる薬を求めてお釈迦さまのもとを訪ねます。お釈迦さまは「死んだものは生き返らないから諦めなさい」とは言いません。一人も死人が出たことのない家だけから、白いケシの実をもらってくるようにと言います。これを聞いたゴータミーはお釈迦さまがケシの実から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思ったのでしょう。お釈迦さまの指示に従って懸命に村の家々を回ります。ところが、芥子の実は一粒も集めることはできませんでした。つまり、村には死者を出したことのない家は一軒もなかったのです。
その間ゴータミーは、あちこちで「うちも去年親を亡くしたんですよ」とか、「私もついこの間子供を亡くしたばかりで、お気持ちはよくわかります」などという話を聞いたに違いありません。こういった話を聞きながらゴータミーは次第に心の平静さを取り戻し、かけがえのない子供の死を受け入れていったのではないかと思います。「死は誰にでもやってくる。自分だけが特別不幸に見舞われたわけじゃない。誰もがそのような苦しみを背負っていたんだ」と思えるようになったのでしょう。
ゴータミーの帰仏
ゴータミーはあらためてお釈迦さまのもとに行きました。そこでお釈迦さまは初めて法を説かれたのでしょう。ゴータミーは最愛の子供を亡くしたことを縁に仏法に出遇った。つまり、子供が亡くなったように、自分もいつ死んでも不思議でなかった。その私が今日も生かされていたと初めて感動をもって気付いたのです。生かされている感謝と感動のない人生ならば、いくら長生きをしても空しい人生である。そのように教えられる所に、生きていて当然であるという傲慢さが破られ、そこに感謝と感動に満ちた人生がゴータミーに開かれ、よろこびを持って自分の人生を生き直すことができたのです。
いのちへの感謝と感動
寿命といいますが、仏教では、「寿」と「命」を分けて考えます。「命」は量的ないのち、つまり何年生きたかということです。それに対して「寿」は質的ないのちのことで、その長くなったいのちを寿(ことほ)いで生きたかどうかということです。ですから、仏教ではただ長生きしただけでは長寿とは言えないのです。迷いの生が伸びただけと考えるのです。
近年、医療技術が発展し長生きができるようになりました。そのことは素晴らしいことだと思います。しかし、お年寄りの声を聞いていると、「こんなに長生きしてしまって」と、戸惑っている方の方が多いように思います。いのちの長短だけを問題にするのは迷いの生です。長くても短くても、そのいのちを感謝と感動をもって生きられれば、それは長寿の質を持ついのちなのです。死を見つめる所に生が輝き、そこに感謝と感動の人生が開かれるのです。それが迷いの命が無量の寿(いのち)へと転じられるということなのです。そして、それは「生まれてきてよかった」と自分自身をいただいて生きていける世界なのです。ある先生の言葉に「仏法に遇わずに百年生きるよりも、仏法に遇うて一日生きることのほうが素晴らしい」とありますが、それはそのことを意味しているのです。