法圓寺

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第285回

平成31年4月1日

憂き世になにか 久しかるべき

 今年の冬は暖冬小雪でしたが、春のお彼岸前から寒さが戻ってきました。それでも最近ようやく春らしくなってきました。平成最後の桜も開花し、今、新潟では満開となり、本格的な春の訪れを感じさせます。

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

 さて、平安時代の歌人の一人に在原業平(ありわらの なりひら)という方がおられました。六歌仙の一人にも数えられる著名な歌人です。この方が桜を愛でる日本人の気持ちを歌に詠んでいます。こんな歌です。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

 「もし世の中に桜がなかったならば、私たちの春の心は、もっとのどかでいられるだろうに」という意味です。私たちは、桜の咲く季節になると、咲くまでは、「まだ咲かないのか」と落ち着かず、咲いたら咲いたで「早く満開になって欲しい」と気ぜわしくしています。そして満開になったら「できるだけ長く咲いていてもらいたい」と、風でも吹いたら花が散らないだろうかと、そわそわしているのです。ですから業平は、そのような気持ちを、いっそのこと桜というものがなければ、春の心はもっとのどかだったろうと歌い上げたのです。これはよく理解できる心情です。

「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき」

 ところが、私は最近その歌に返歌があることを知りました。返歌というのは、贈られた歌に応えてよむ歌のことです。この返歌を詠んだ人は誰かわかっていませんが、こんな歌です。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき

 「散るからこそ、いっそう桜は素晴らしいのだ。はかない世の中に永遠なるものなどあるだろうか。いやあるはずがない」という意味です。この返歌には仏教的な色彩があります。確かに一年中桜が咲いていたら見飽きてしまって、誰も見向きもしなくなるかもしれません。ぱっと咲いて、ぱっと散るからこそ、みんな桜を愛でるのでしょう。そしてこの返歌の詠み人は、桜に無常ということを感じ取ったのです。このはかない世の中に永遠なるものなどない、ということを桜によって教えられたということです。
 私たち人間のいのちにも同じようなことが言えるのではないでしょうか。多くの方は長生きが好きで、生には○、死には×を付けて生きています。しかし、もしこのいのちが何百年も何千年もあったら、私たちは今と同じように一生懸命生きていられるでしょうか?桜と同じように限界があるから、生きてるうちにと、懸命に生きることができるのではないでしょうか?ですから、桜だけでなく私たちのいのちも、散る時があるからこそ輝くのです。

「死の自覚が生への愛だ」

 京都大学のギリシャ哲学の先生である田中美知太郎さんは、「死の自覚が生への愛だ」 とおっしゃっています。この私の命にも終わりがあることに深く頭が下がった時、この一瞬一瞬がかけがえのない、おろそかにできないいのちであったと頷かれてくるということなのです。そこに真に輝く生が開かれてくるのではないでししょうか?桜によって、いのちのはかなさと、それによって開かれてくるいのちの輝きの素晴らしさを教えられたような気がします。