第312回
はじめに
時々法話を聞かれた後で、「気をつけなければいけませんなあ」とおっしゃる方がおられます。
確かにそう言いたくなる気持ちもわかります。
しかし、それはある意味では、「気をつけさえすれば直せる」という聞き方をされているということもできます。
安田 理深(やすだ りじん)
真宗大谷派の安田理深先生は、よく学生に次のようにおっしゃっておられたそうです。
君たちは、「箸には引っかからんが、棒には引っかかる」と思っているのだろう。だから本願が響かんのだ。つまり、「本願に遇うまでは、自分の力でなんとか助かると思っている。」しかし、本願に遇って初めて助からん我が身と知らされるのだ。わが心を良くしようと修正すれば、浄土に往生できると思っている。その心そのものが救いに遇えない心なのだ
と。これは大変深いお言葉ですし、私たちが陥りやすい過ちを教えてくれています。
例話―父親の介護に励む息子サンの姿を通して―
ある集落に、懸命に父親の介護を続ける息子さんがおられたそうです。
周囲の方は、「偉い、なかなかできることではない」と褒めたそうです。
しかし本人にそのことを話すと、「本当の私はそんなものじゃないんです。毎日毎日、親父、早く死んでくれと思わない日はないんです」とおっしゃっていたそうです。
「なんとひどいことを!」と言う方もあるかもしれませんが、それが日夜介護に明け暮れている方の正直な気持ちではないでしょうか。その息子さんの言葉を誰も批判できないと思います。
仏様の光明に心の底まで照らし出されたら、みんな罪の身なのに、私たちはそのことを忘れて生きてるのです。
本願に出遇うとは、救われて「ありがたや」ということではありません。
本願に出遇って初めて、助かるはずのない我が身であったと知らされるのです。
炭団は、洗っても黒い
炭団とは・・・
豆炭のことです。
炭団はいくら洗っても白くなりません。それと同じように、人間の心もいくら洗ってもきれいにならないのです。
それは私たちが、煩悩という心身を惑わすものからできているからに他なりません。
ところが私たちは、煩悩を洗い流せばきれいになるという幻想を捨てられないのです。だから本願が響かないと安田先生はおっしゃるのです
先ほどの息子さんのように自分の本当の姿に気づけば、自分で自分の心をきれいにできるはずがない。そんなことで助からん我が身であると知らされるのでしょう。
しかし、そんなどうしようもない私たちを阿弥陀仏は真っ先に助け遂げたいと願っている。それが本願のお心なのです。
そのことに目覚めたら、私たちは自分のあり方を懺悔して、そのままお念仏申すしかないのです。そこに謙虚で謙遜な生き方が回復されてくるのです。
善人になる必要はありません。
悪のまま念仏して生きていける方が真の念仏者なのです。