法圓寺

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第275回

平成30年6月1日

前世の敵(かたき)

当院の結婚

 今年の5月19日に当院が貝沼美沙子さんと結婚させていただきました。結婚式や結婚報告式にご出席いただいた方や、お祝いを頂戴した方に心より御礼申し上げます。
 さて、私たち住職夫妻は昭和63年4月に結婚させていただき、それからはや30年が経過をいたしました。その時、媒酌人の松井憲一先生から結婚報告式の記念法話をしていただいたことを思い出します。その時、先生から「夫婦というのは前世の敵同士が一緒になったんや」という衝撃的なことを拝聴させていただきました。

前世の敵

 結婚した当時は、「あばたもえくぼ」ですが、そのうち「あばたはあばた、えくぼはえくぼ」になり、ついには「えくぼもあばた」に見えるものでしょう。その時に、先ほどの「夫婦とは前世の敵同士が一緒になったんや」という言葉が頷かれてきます。しかし、聞法を重ねることによって、そういう夫婦関係の見え方が変わってくるのです。結局、相手を自分の思い通りにしたい、「なんで自分の思いを分かってくれないのか」と自分の思いだけを相手にぶつけている、そういう自分のあり方が夫婦の関係を壊していると気づかされてきます。
 何十年も一緒に夫婦として生活していても、「自分だからお前のようなものを置いてやっている」と夫は思い、妻は妻で「自分だからこんな所に我慢してやっている」と、お互いに突っ張っている。そういう夫婦が多いのではないでしょうか。しかし、聞法させていただくと、自分自身のそういうあり方が、仏様の光を通してひっくり返されてくる。そこに「ああ、そうだったなあ」と相手をいただいて生きていけるのです。

慚愧(ざんぎ)あるが故に

 『涅槃経』というお経に「慚愧(ざんぎ)あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」という一節があります。慚愧とはすまなかったという気持ちのことです。それをお互いに持ち合うことによって、初めてそこに父母・兄弟・姉妹という家族があるということが説かれています。慚愧の気持ちがなければ、血は繋がっていても名ばかりの家族に過ぎないということなのでしょう。夫婦も同じことです。お互いに自分が自分がと、突っ張っているだけでは、ただの他人です。仏様の光に照らされて、そういう自分たちの姿に気付いた時、すまなかったという気持ちを持ち合うことができるのです。そこに本当の夫婦となれるのではないでしょうか。
 そこまで教えられると、夫婦は前世の敵同士だから、現世ではどれほど愛し合っても愛しすぎることはない。敵同士だから、どれほど大切にしても大切にしすぎることはない、といただけてくるのではないでしょうか。

勝手さに目覚める

 お寺の掲示板に「結婚とは、こんなにも考えが違う人がいることを教えてくれる、有り難いご縁」と書かせていただきました。考えが違う人がいるのは当たり前です。考えが違う妻や夫をご縁にして、自分の勝手さに目覚め、聞法させていただきたいものです。

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