法圓寺

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第257回

平成29年1月1日

天命に安んじて人事を尽くす

明けましておめでとうございます。本年も法圓寺テレホン法話を聞いていただけますよう、お願い申し上げます。

清沢満之(きよさわまんし)先生の言葉

 篠崎一朗さんという方がいらっしゃいます。この方は末期がんを克服したものの、再発の危険を抱えながら、親鸞聖人の教えに励まされて生きている方です。篠崎さんは、親鸞聖人の教えを学んで行く中で、沢山の言葉に出遇われましたが、一番強く心に響いたのが「天命に安んじて人事を尽くす」という清沢満之先生の言葉だったそうです。世間では「人事を尽くして天命を待つ」(『読史管見』にある南宋初期の中国の儒学者・胡寅〔こいん〕の言葉「人事を尽くして天命に聴(まか)す」に基づく)と言います。この言葉には努力すれば報われるというニュアンスがあります。しかし、努力しても報われるとは限らないのが現実です。ところが、私たちは一生懸命やれば報われるはずだと思い込んで、報われずにみんな絶望していくのです。篠崎さんは、このような自分の思いに視点を置いているうちは救われないと気づかれたのです。つまり、病気のままに尊い自分であると、「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉によって教えられたのです。篠崎さん自身が今までは「人事を尽くして天命を待つ」と教えられ努力してきたのですが、親鸞聖人の教えに触れると、「天命に安んじて人事を尽くす」という生き方に転ぜられたと言います。

この身を引き受けよ

 人事を尽くしても思い通りになるとは限らず、どこかに不安を抱えながら生きざるを得ません。そこには努力に対する絶望しかありません。しかし、天命に安んじた生き方では、立派な人間でなくても、ガンに悩み、もがいている私でも、これが私自身なのだとすべてを受け入れて、その上で、できるだけのことをすればいいのだと、教えられたと篠崎さんは言うのです。その「天命に安んじて人事を尽くせ。あるがままのこの身を引き受けよ」という呼びかけが、篠崎さんにとっての南無阿弥陀仏だったのです。「南無阿弥陀仏」は、自分が称えているように思いますが、そうではありません。阿弥陀仏からの呼びかけの言葉なのです。

自分なりの華を咲かせて

 そして、篠崎さんは「天命とはお浄土と言ってもいいでしょう」と言われます。お浄土とは死んでからの世界ではありません。どんな自分でも尊い自分として決して見捨てない世界です。それに対して、私たちの迷いの世界、私たちのあり方を「穢土」(えど)と言います。自分にとって都合のいい自分しか受け止められない世界です。人はどんな自分でも受け止めてくれる世界、お浄土に本当は出遇いたいのではないでしょうか?篠崎さんは、「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉によって、ガンで死にかけ、悩み苦しみ、もがいていた自分でも、「これが自分なのだ」とすべてを受け入れ、生きてゆける世界に目覚められたのです。私たちも、篠崎さんのように、あるがままの自分を受け入れ、自分なりの華を咲かせて生きてゆきたいものです。

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