第328回
旧統一協会のこと
安倍前総理の銃撃事件以来、旧統一教会の問題が連日マスコミで取り上げられています。先日は、統一教会に入信していた女性の夫が、テレビで統一教会を批判しておられました。この方のご家庭は、奥様が統一教会に入信して莫大な寄付をしたために、崩壊してしまったそうです。そのせいで、この方の息子さんは庭で焼身自殺をされたと述べておられました。私はそれを聞いていて、本当に切ない気持ちになってしまいました。勿論、浄土真宗のお寺であっても、御門徒さんに寄付のお願いをすることもありますので、寄付やお布施のことについて、自分の問題として考えさせられました。
三輪清浄
仏教では「三輪清浄」という言葉があります。「三輪」は三業のことで、身業、口業、意業の三つが清らかに働いていることを意味します。身業は体の動作や所作、口業は言葉、意業は意識、つまり心の働きのことをいいます。それから転じて、お布施の時に、施す人と施しを受ける人と施す物の三つの全てが清らかで執着がないことをいうようになったようです。例えば、お布施や寄付をされる方が、「自分がしてやった」というような思いがないことを「三輪清浄」という言葉は表します。お布施を受け取る側も、「もっともらいたかった」というような気持ちから離れて、有り難く頂戴するということです。金銭的な執着があれば、当然施す物も、その執着で汚染されてしまいます。ですから、「三輪清浄」であることで、初めて真実のお布施ということができるのです。「お布施をしないと災いが降りかかる」などと言って、お布施を強要するのは単なる脅迫であり、「三輪清浄」の精神からは、遠く離れていると言えるのです。
「六字でできました」
以前、以下のような話を聞いたことがあります。昭和の初め頃にイギリス政府の高官が日本に来られて、京都の東本願寺にお参りになられたそうです。その時に東本願寺が世界最大級の木造建築だと聞かれて大変驚かれました。そして、その高官は「このお堂はいくらで建ちましたか?」と尋ねたそうです。その時に案内をしていた当局の方は、両手の指を使って「六」を示して、「これだけです」と答えました。するとその高官は、「それは六百万ドルですか、六千万ドルですか」と訊くので、当局の方は
いえ、南無阿弥陀仏の六字で建ったのですよ
とお答えになったそうです。これは素晴らしい回答だと私は思います。
本堂は 聞法の道場
当時の寺族、ご門徒の方々は、現代よりもはるかに苦しい生活であったと考えられます。勿論、寄付金を惜しむ気持ちもあったとは思いますが、親鸞聖人をお慕いし、お念仏を生活の拠り所とされていた方々は、そのお念仏の教えを聴聞する道場としてのお堂建築のために、尊い喜捨をしてくださったのでしょう。ですから、当局の方はお金の額ではなく、「六字のお念仏」で出来ましたとお答えになったのだと思います。それは言葉を換えれば、先ほどお話しした「三輪清浄」ということを表現しているのではないでしょうか。私たち僧侶は、自分に関わる寄付やお布施が「三輪清浄」であるのかどうかということを、いつも頭のどこかに置いておきたいものです。
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