第307回
「日報抄」の言葉
新型コロナウィルスの日本での感染が始まって、一年以上経過しましたが、まだ終息の目途は立っていない状況です。
そんな状況の中で、私は昨年六月に新潟日報に掲載されていた「日報抄」というコラムのことを思い出しました。
その「日報抄」は、以下のような書き出しで始まります。
トンネルの中で僕は気付いた 今まで普通に生活してきた日々が こんなにも幸せだったということに
普通なる暮らしの中に幸せあることを知り 四月の終わる
コロナ禍における気づき
これは新潟日報のジュニア文芸と読者文芸の欄に掲載された詩と短歌だそうです。
自粛生活が続く中で、この詩や短歌のように、以前は当たり前だったことの有り難さを、改めて感じておられる方も多いのではないでしょうか?
考えてみれば・・・
- あれが食べたい、これも食べてみたい
- こんな所にも行きたい
そのような欲に私たちは振り回されていたのではないでしょうか?
人間の欲には限りがありません。
一つ叶えば、また次の欲が頭をもたげてきます。
生きているだけで有り難い
精神科医・山本昌知さんを追ったドキュメンタリー映画『精神0(ゼロ)』の中に、物欲を抑えられないという患者さんに山本さんが助言をするシーンがあります。
週に一回でも、ああしたい、こうしたいをやめて、生きとるだけでありがたいと思う日をつくるんじゃ。ありがたいが増えたら、結構気分がいいで
欲を肯定した上で、時には物欲をゼロにする日を作ってみようというのです。
私たちは、コロナ禍が終息して、以前の生活を取り戻すことが大切だと考えています。確かにそうかもしれませんが、それでは元の木阿弥です。
コロナ禍をご縁にして「生きているだけで有り難い」と思える自分になることの方が、大切なのではないでしょうか。
吾唯足るを知る
京都の竜安寺に時計回りに四つの漢字を配した「つくばい」があります。
その「つくばい」とは、茶室に入る前に手を清めるために置かれた手水鉢(ちょうずばち)のことです。
竜安寺のつくばいの四つの漢字は、中央に水を張った口と読める部分を、それぞれの漢字に共通して読むと「吾唯足るを知る」と読めます。
仏の覚りを表す言葉なのでしょう。
今回のコロナ禍も、この「知足」、すなわち「足るを知る」ということに気付くご縁としたいものです。