第265回
今年の8月29日は、一日に三人ものご門徒様がお浄土に還り、9月1日から三日間連続の葬儀となりました。ところが、私が風邪をひいてしまい、声が出なくなりいろいろな方にご迷惑をかけましたが、何とか葬儀を勤めさせていただきました。その葬儀の時に、ふと讃岐の庄松(しょうま)さんのことを思い出しました。
庄松さんは、江戸時代から明治のはじめまで、浄土真宗の信仰に生きた市井の人であり、よく妙好人と評されます。代々、浄土真宗興正派のご門徒で、生涯独身を貫き、農業や草履作りをして生涯を終えた方です。
この庄松さんが、初めて京都の興正寺本山に参詣した時に、何人かのお同行と一緒に「おかみそり(帰敬式)」を受けました。「おかみそり」とは、ご門主から髪を剃るまねをしていただき、法名をいただき仏弟子となる儀式です。興正寺のご門主が、お剃刀を庄松さんの頭にあてて、次の方に移ろうとした時、庄松さんはご門主の緋色の衣の袖を引き留め、「あにき、覚悟はよいか?」と言ったというのです。
「おかみそり」が済んでから、庄松さんはご門主に呼び出されました。周囲の方は「これは大変なことになった」と大騒ぎでしたが、庄松さんは平然としています。ご門主は「今わしの法衣の袖を引っぱったのは、そちであるか」と問うと、「へい、おいらであります」と答えます。ご門主が「何と思うて引っぱった」と問うと、庄松さんは「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄を免れることはならぬで、後生の覚悟はよいか、と思うたままを言ったのじゃ」と答えました。この後少しの問答があって、ご門主は庄松さんの答えに満足し、「そちは正直な男じゃ。今日は兄弟の杯をするぞよ」という話になり、庄松さんはごちそうをいただいたのだそうです。
私も葬儀の導師をする時に、亡くなった方から、「お前さんの覚悟はよいか?」と衣の袖を引っぱられるような気がすることがあります。「偉そうにしておっても、死の縁は無量。待ったなしだぞ。その時の覚悟はできているのか?」そのように亡き方から問われているような気がするのです。
お通夜や葬儀にお参りする意味は、亡くなった方とお別れをしたり、感謝の言葉をおかけするだけではありません。私たちはいつも他人事にしていますが、そうではなく、自分もいつかは今日のお通夜や葬儀の方と同じように亡くなってしまう。その時の覚悟というか、これで死んでも悔いはありませんというものに出遇っているのかがお参りすることを通して問われてくるのではないでしょうか?そういう大きな問いを賜るのも、お通夜や葬儀にお参りする意味だと思います。
ある先生は、「食べるだけのために働いていたら、いつかこんな自分になってしまって、という人生になる。世間の仕事は余力を残して辞めなさい。後生の一大事が残っていますよ」とおっしゃったそうです。いつ娑婆の縁が尽きてお浄土参りの時が来ても、「私は阿弥陀様の御手の真ん中です」と言えるような人生を歩みたいものです。