法圓寺

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第368回

令和8年3月15日

かくれ念仏の里

「かくれ念仏」とは?

 今年の2月下旬から3月上旬まで、ご本山から差向布教(さしむけふきょう)を命ぜられ、鹿児島と熊本にお説教に伺ってまいりました。熊本の人吉市では、「かくれ念仏」の史跡を案内してもらったり、当時使われていた遺物を見せてもらいました。  「かくれキリシタン」は知っているけれど、「かくれ念仏」は初めて聞いたという方も多いかもしれません。「かくれ念仏」とは、南九州の薩摩藩や人吉藩で1597年から約300年間にわたり、浄土真宗の信仰が厳禁される中、信仰者たちが弾圧を逃れ、守り抜いたひそかな信仰の形のことです。ガマといわれる洞窟や、船の上、夜更けの家屋などで「講」と呼ばれる集まりを作り、隠れて念仏を称え、その灯を次の世代に継承してくれたのです。

念仏禁制の理由

 念仏が禁制となった理由は、浄土真宗の教えは、すべてのいのちが阿弥陀如来の前では等しく尊いというものであり、それが為政者には容認し難いものであったからです。事実、加賀の一向一揆のように、民衆が一国の支配体制を覆すほどの抵抗と団結をもたらした例もあり、領民の心を統制し封建体制を確立しなければならなかった当時の薩摩藩や人吉藩にとっては、その教えは脅威でした。そのため信仰していることが発覚すれば、ご本尊や経典は没収され改宗を強要されたのです。  

殉教者・伝助

 今回、与内山(よねやま)の首塚聖地という所を案内していただきました。ここは殉教者・伝助のご旧跡です。伝助は、球磨郡山田村、現在の山江村に生い立ち、真宗の法縁にお出遇いし、無二の信者だったそうです。秋山和七郎という弟子を伴って、昼は奥の間に隠れ、夜は人の寝静まるのを待って各村落に法義の宣布に努めていましたが、ならず者の富左衛門の密告により国禁を破る者として山田川原の刑場の露と消えました。これは天明2年、1782年のことでした。伝助の愛弟子・和七郎が山田川原の刑場獄門台に晒された伝助の首を盗み、自分の所有地に埋葬した首塚の地がここだそうです。その後、和七郎の息子である弥七郎が伝助の遺された歯を隠したとされるお地蔵さまを祀り、首の供養塔にしたと言われています。

傘仏さま

 また、真宗佛光寺派の楽行寺様では傘佛様を見せていただきました。これは佛光寺派第25代御門主・真達上人よりいただいた親鸞聖人の御影の掛け軸を、くりぬいた桐の傘の中に納め、隠すために作られたものです。その傘に偽装した御真影様を携えて「講」を開き、お念仏を称え法義を相続しようとされたのでしょう。  そのようにして工夫を重ね、私たちの先達はお念仏の教えを次の代に守り伝えてくださったのです。それは命を賭した念仏相続でした。しかし、どれほど厳しい禁制であっても、人々の純粋な信仰を奪うことはできなかったのです。

お念仏の輪を広げよう

 真宗禁制の歴史は「かくれ念仏」として、今も鹿児島や熊本の各地で語り継がれています。時代は移り変わっても、命がけで信仰を護った念仏者のご苦労や、禁制下や開教後に布教にご尽力くださった開教僧たちの功績は、次の代に継承されなければなりません。先人のご苦労を偲び、命がけで護り伝えてこられた浄土真宗のみ教えの輪を、いま一度私たち一人ひとりが喜び、大切にしていく尊きご縁として広げていかなくてはと強く感じさせていただきました。

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